アル・カポネの足跡を辿って | 電子部品・半導体 | 株式会社JBC

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アル・カポネの足跡を辿って

 1829年に建てられたイースタン州立刑務所。
 1776年にアメリカ合衆国の独立宣言がなされ、「自由の鐘」が打ち鳴らされたペンシルバニア州フィラデルフィアの街中にある。フェアモントアベニューを進んでいくと、突如として4万5000平方メートルのバロック建築が現れ、タイムスリップしたかのような気分になる。

 私が当地に足を運んだ日は、FIFAクラブ・ワールドカップ開催期間中とあって、ブラジルの名門、フラメンゴのユニフォームを身に纏った人々もやって来ていた。
 「せっかくフィラデルフィアまで来たんだから、観光地巡りもしておこうと思って。アル・カポネもここに入っていたんだよね」
 40代と思しき背の高い髭面の男性が、ポルトガル語訛りのない綺麗な英語でそう言った。

―――アル・カポネ―――。1899年1月17日、イタリア移民の子供としてニューヨーク、ブルックリンで誕生。言葉の壁に苦労しながら床屋を営んでいた父親は、幼い息子に「靴磨きでもしてカネを作って来い」と命じる。小学生にして路上で働き始めたカポネは、年上の少年に稼いだカネを巻き上げられながらストリートの掟を学ぶ。その後、10代でギャングの一員となり、売春組織の用心棒を務めた。一方、ベースボール選手としての力はセミプロ級だったという。
 20代前半でシカゴに移り、密輸を行っていた犯罪シンジケートのボス、ジョニー・トーリオのボディガードとなる。トーリオは裏社会を仕切る錬金術と人の扱いに精通していた。カポネにとって、トーリオは師となった。カポネは、「良質の服を纏って、常に身だしなみを整えろ」「余計な事は口にするな」「カネこそが力を産む」三原則を、トーリオの助言によって身に付ける。
 やがてトーリオから組織を譲り受けたカポネは、先代以上に暴力的な方法で酒の密造に力を注ぎ、ビジネスを拡大。彼は、ウィリアム・ヘイル・トンプソン市長やシカゴ市警などと一見、友好的に映る関係を築いた。当時、カポネは法の執行から逃れられるかに見えた。また、現代の金額にして、13億ドルを稼いだカポネは、様々な団体に寄付を行い、多くの人から、「ロビン・フッド」と呼ばれた。
 しかしながら、1929年5月、ラスベガスと並ぶカジノタウン、ニュージャージー州アトランティックシティーで豪遊した帰りにフィラデルフィアの映画館に立ち寄ったカポネは、38口径リボルバーを所持していた罪で逮捕され、7カ月間、このイースタン州立刑務所に収監された。

 JBCが犯罪者を讃える事は一切無いが、カポネが「ロビン・フッド」とされていた事実は見逃せない。弊社には、世知辛い世の中だからこそ、“弱者”とされる方々へのサポートを続けたいという思いがある。
 今月、プロアスリートと共に、金沢支援学校を訪問する予定を立てている。我々の活動が「ロビン・フッド」になれるかどうかは分からないが、出来ることをやろう!と社員一同で考えている。

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